ニュース

第5次「村山談話を継承する平和の旅」

カテゴリー:党務 外交安保 投稿日:2019-12-18

第5次「村山談話を継承する平和の旅」

第5次「村山談話を継承する平和の旅」の訪中団が、4人の参加により今年10月31日から6日間、ハルビン、瀋陽、撫順、唐山、北京を訪問して行なわれた。

訪問先の施設は、日本軍の細菌兵器製造部隊である731部隊の遺跡と同罪証陳列館(ハルビン市)、柳条湖事件歴史博物館(瀋陽市)、平頂山虐殺事件記念館(撫順市)、三光作戦跡の「潘家戴庄虐殺事件記念館」など(唐山市)、盧溝橋事件跡(北京市)。731部隊の被害生存者から証言を聴取し、中国社会科学院・中国国際青年交流センターで意見交換を行なった。

涙ながらに語ったペスト菌の悲惨さ

日本の敗戦直前に、731部隊の建築物は爆破されたが、その際、ペスト菌感染ネズミが拡散し、翌年夏、約4㌔離れた平房地区で暮らしていた張さん(当時10歳、現在83歳)は、農業を営む家族19人のうち12人をペスト菌で亡くした。同村内で約100人、周辺村で約150人が亡くなった。

「詳細は悲しすぎて話せない」(張さん)とのことで、張さんの娘・靖さん(64歳)が父親の張さんや叔父叔母から涙ながらに聞いた話を次のように証言した。

「家族で1人感染すると、薬も治療法もなく次々に感染し、首がはれて息苦しくなり、黒い血を出して亡くなった。埋葬が追いつかないほど次々に亡くなった。人民政府に連絡して医師を派遣してもらい、死体を解剖してやっとそれがペストだと分かり、被害者が隔離された。被害者は『保菌者』と周囲から言われ、つらい思いをした。この事実を後世に伝えることが、生き残った者の務めだと思う」

戦争は「終戦」で終わらず、731部隊の傷痕が今も続いていることに気付かされた。

「三光作戦」の虐殺を遺跡として保存

次に訪れたのが、河北省唐山郊外にある三光作戦遺跡の潘家峪虐殺事件記念館と潘家戴庄虐殺事件記念館である。

日本軍がかいらい政権として1935年末に設立した冀東防共自治政府に対し、八路軍は抵抗運動を組織。潘家峪村はその活動の中心となっていた。41年1月25日、日本軍が村人を地主の邸宅・潘家大院に集め、八路軍の行方の自白を迫った。村人たちが沈黙すると、日本軍は銃剣と放火で殺りくを始めた。約1700人の村人のうち1230人(男性315人、女性352人、子ども563人)が虐殺され、すべての財物が根こそぎ略奪され、約1300戸が焼き尽くされた。「殺し尽くし・奪い尽くし・焼きつくす」という三光作戦が遂行されたのだ。

潘家峪虐殺事件記念館には、その証拠物件や証言と共にその日を再現したジオラマが展示されている。また周辺には、虐殺遺跡が「歴史の証し」として保存されており、惨劇を実感することができた。

また、友好の証しとして、「侵略を記憶し語り継ぐ平和の旅」が以前訪問した際の写真が記念館に展示されており、平和の旅の取り組みを継続する意義を再確認した。

事実を突きつける遺骨の迫力に圧倒

もう一つの潘家戴庄虐殺事件は、42年12月5日に起きた。治安強化と称して三光作戦を展開していた日本軍が、八路軍をかくまったという名目で、平和に暮らす370戸約1700人の村人を1人ずつ引きずり出して広場に集め、彼らに掘らせた穴の中で老若男女1280人を虐殺し、村全体を焼き尽くした。

記念館には、千人抗の中の頭のない遺骨や、子どもを抱いている遺骨、妊婦や乳幼児の遺骨などの21体をはじめ、多くの証言・証拠物件が保存され、1280人の名前が刻まれている。422人の生存者は多くの証言を残したが、現在、何人生存しているかは確認できていない。また、大虐殺を命令した第27歩兵団団長で駐唐山地区司令官の鈴木啓久が、自らの罪悪を認め、56年の特別軍事法廷で懲役20年の刑を受けた裁判記録と共に、日本の平和団体・個人が多数訪問していることも紹介されている。

撫順炭鉱での抗日闘争に関わったとして、スパイ行為との名目で約3000人が虐殺された平頂山虐殺事件記念館と同様に、事実を突きつける遺骨の迫力に圧倒された。

「前事不忘・后事之師」の格言を各所で見た。事実を解明し、貴重な証言と共に継承し、次世代へ正確に発信しなければならない。日本の加害責任としっかりと向き合うことが現在を生きる私たちの責務であるとの認識を新たにした旅となった。(文と写真=広島県・楠本昭夫)

(社会新報2019年12月18日号より)