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憲法コラム

第99回(8月13日):照屋寛徳 議員

米軍政下の沖縄と憲法記念日

【写真】オスプレイ追加配備抗議集会に参加=8月12日午前、普天間基地野嵩ゲート前

米軍遺棄のドラム缶発見現場を視察=6月22日、沖縄市

 「国民の祝日に関する法律」(昭和23年7月20日、法律178号)というのがある。わが国で施行されている無数の法律の中で、この法律の存在は多くの国民が承知していることと思う。いや、国民の「注目と関心」の的というべき法律だ。それが故に、同法は幾度か改正され、「国民の祝日」を増やし、今日に至っている。

 「国民の祝日に関する法律」第1条は、その目的について、次のように定めている。

 「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよい社会、よりよい豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを『国民の祝日』と名づける。」

 同法第2条は、「国民の祝日」は次のように定めるとし、現在では1月1日の元旦から12月23日の天皇誕生日までの15日間を休日としている。

 「国民の祝日に関する法律」第2条には、日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する目的で、5月3日を憲法記念日と定めている。

 ところで、復帰前の沖縄は、日本の施政権が及ばないアメリカの軍政下にあり、日本国憲法も適用されてなかった。いわゆる「無憲法」下の沖縄である。しかも、復帰前の沖縄は、アメリカ軍が発する布令、布告等の「法の支配」下にあり、日本の国内法の適用もなかった。

 そのような、米軍政下の沖縄で、1961年7月24日、当時の琉球立法院(現在の沖縄県議会)は、「住民の祝祭日に関する立法」(立法第185号)を制定したのである。

 同立法第1条は、「国民の祝日に関する法律」(法律178号)と同じ趣旨の立法目的になっている。日本の国会で制定された法律178号では、「日本国民は」となっているが、琉球立法院が制定した立法185号では、「琉球住民は」となっている。当時の、ウチナーンチュは「日本国民」ではなく、「琉球住民」であった。ウチナーンチュは、「日本人」としての法的扱いを受けない「琉球人」であった。

 ところで、琉球立法院は、1965年4月9日、「住民の祝祭日に関する立法の一部を改正する立法」を全会一致で可決・成立させている。改正の最大の内容は、「日本国憲法の施行を記念し、沖縄への適用を期する」ために、5月3日を憲法記念日として「住民の祝祭日」に追加規定したのである。アメリカ軍政下の沖縄、「無憲法」下の沖縄で、住民代表の琉球立法院議員らは、5月3日の憲法記念日を「住民の祝祭日」と定めたのである。

 「住民の祝祭日に関する立法の一部を改正する法律案」の発議者は11名。その中には、後の県知事・故平良幸一氏、那覇市長・故平良良松氏らが名を連ねている。

 発議者の一人で、古堅実吉氏(当時は人民党、元共産党衆議院議員)は、発議者を代表して、次のように提案理由を説明している。

 「わが沖縄は、その祝日(憲法記念日)は今日までもたれてきませんでした。それは、住民が憲法の施行に反対し、その祝日の定めに反対したとかの理由によるものではなく、日本国の主権が及ばず、したがって憲法とそれに基づく諸法令が沖縄には適用されていないというところに基本的な原因があるものだと考えるものであります」

 「(中略)したがって、憲法記念日を設け、憲法のわが沖縄への適用を期して戦うことは、20年にわたるアメリカの支配を打ち破り、祖国復帰をかちとる道に通ずるものであります」

 古堅実吉氏は、提案理由説明の中で日本国憲法制定の経緯や意義・内容等にも論及し、「新憲法は第二次世界大戦のもたらした筆舌にしがたい、恐るべき結果の中から、再びそのような戦争を引き起こすがごときことのないようにという重大な決意に基づいて制定された平和憲法であり」と結んでいる。

 琉球立法院が望んだ沖縄への憲法適用は、1972年5月15日の本土「復帰」をもって実現した。然しながら

 「復帰」から41年余まりが経過した現在、沖縄は「反憲法」下の「憲法番外地」にある。

 

(2013年8月13日 社民党衆議院議員 照屋寛徳)


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