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憲法コラム

第90回(7月8日):照屋寛徳 議員

沖縄で憲法前文の平和的生存権について考える

照屋寛徳

 私の国会事務所に、憲法前文の「平和のうちに生存する権利」の扁額がある。私の前原高校時代の恩師であり、書家の故下地武夫先生の書である。

 言うまでもなく、前文は憲法の「顔」である。そして、前文は憲法の根本理念を各条文と一体となって形成している全体の一部であり、前文と本文(各条文)は不可分な一体をなしている。

 ところで、憲法改憲を目論む自民党国会議員らは、憲法第96条や憲法第9条などの各条文だけでなく、憲法前文についても批判し、攻撃する。私が衆議院の憲法調査会(憲法審査会の前身)に出席した際に、某自民党議員が、憲法前文は「翻訳調である」とか「俵万智(歌人)にお願いして、正しい日本語で書き直してもらおう」などとの意見をくどくどと述べたりして、唖然、茫然とした記憶がある。一人だけでなく、複数名もいたのだ。

 現に、昨年4月に発表された自民党「日本国憲法改正草案」では、現行憲法前文を全面的に書き換えている。私は、憲法前文と各条文との理念としての一体性に照らし、感覚的、非論理的な理由で、いたずらに前文を書き換えるべきではない、と考える。そして、自民党「日本国憲法改正草案」で重大なことは、前文を全面的に書き換えただけでなく、前文から「平和的生存権」をバッサリと削除してしまったことだ。断じて許せない。ワジワジーして、怒り心頭だ。到底、看過できない。

 ご承知のように、憲法前文二段後半は「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と謳っている。いわゆる「平和的生存権」の規定である。

 これまで「平和的生存権」は、学説・判例上、抽象的権利」とされてきた。ところが、2008年4月17日、名古屋高裁は「自衛隊のイラク派兵禁止裁判」の控訴審判決で、「平和的生存権」の具体的権利性を肯定する歴史的、画期的判決を言い渡した。同判決は、同年5月2日、被告国が上告を断念し、確定した。前掲名古屋高裁判決は、「平和的生存権」の具体的権利性を肯定したうえで、「憲法9条に違反する戦争の遂行、武力の行使等や戦争の準備行為等」への「加担・協力の強制」も要件に含めるなど、「平和的生存権」侵害を認定する要件を明確に認めた。

 さて、憲法前文の「平和的生存権」と前掲名古屋高裁判決に照らし、沖縄の現実をどのように考えるべきか。米軍政下の「復帰」前から「復帰」後の今日まで、沖縄とウチナーンチュには、憲法前文の「平和的生存権」が全く保障されていない。国土面積のわずか0.6%の沖縄に、在日米軍の約74%が集中し、ウチナーンチュの「いのちの安全」より軍隊の運用が優先し、オスプレイの墜落の恐怖、「殺人的爆音」の恐怖、凶悪卑劣な米兵犯罪の恐怖、戦争の不安と恐怖から免れる日常は存在しないのだ。

 私達ウチナーンチュは、戦争の加害者にも被害者にもなりたくない。ただ、平和のうちに生きていたい、暮らしていきたい、とのごく穏やかな願いだけなのだ。

 自民党「日本国憲法改正草案」に見る憲法前文の全面書き換えと憲法前文からの「平和的生存権」の全面削除は、ユルチ ユルサラン(許そうにも許せない!)

(2013年7月8日 社民党国対委員長 照屋寛徳)


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