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憲法コラム

第79回(6月17日):照屋寛徳 議員

パスポート(旅券)と憲法22条

照屋寛徳

 日本国憲法第22条は「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」と規定する。何人も、「公共の福祉に反しない限り」において、居住・移転・職業選択・国籍離脱の自由が保障されているのだ。憲法上「何人も」と言う場合、原則として日本国民だけでなく、外国人も含まれる。

 ところで、米軍による沖縄占領と軍政の継続が27年間続いた「復帰」前の沖縄、「無憲法」下の沖縄では、憲法第22条で保障された自由がなかった。沖縄から本土他府県へ渡航(移転)するにも統治責任者たる琉球列島米国民政長官(のちには高等弁務官)の発給するパスポートが必要であった。

 米軍の悪政と闘い続けた瀬長亀次郎氏(人民党委員長・元共産党衆議院議員)や復帰運動の指導者屋良朝苗氏(初代公選県知事)らは、本土への渡航申請を却下され、渡航拒否も度々であったようだ。要するに、米軍にとって「好ましからざる人物」は、パスポート発給が拒否されたのだ。本土の大学で学び、夏休みで一時帰省し、「復帰」運動をしたとの理由で、パスポートが再発給されず、学業断念に追い込まれた者も多くいる。

 私が、最初に東京に〈渡航〉したのは、1964年7月、当時琉球大学1年生であった。学生会役員をしていたことで米軍に睨まれ、すんなりとはパスポートが発給されなかった。琉大学生会の仲間が抗議行動を展開し、ようやくパスポートが発給され、〈渡航〉予定より数日遅れて、船で出航することができた。当時のパスポートには「琉球人照屋寛徳」と表記されていた。

 私が二度目にパスポートを発給されたのは、最高裁の司法修習生として〈渡航〉する際の1969年4月であった。その頃になると復帰のメドがつき、いつの間にか「日本人照屋寛徳」の表記に変わっていた。だが、依然としてウチナーンチュには居住・移転の自由はなかった。沖縄から出る際も、沖縄に戻る際も、入国審査官の査証を要したのだ。

 さて、本題に戻る。封建時代には、人間は土地と身分に拘束され、居住・移転の自由も制限され、職業選択の自由もなく、人間の職業はその身分によって決定されていた。日本国憲法第22条が規定する「居住の自由」とは、住所または居所を決定する自由であり、「移転の自由」とは、住所または居所を変更する自由である。海外渡航の自由も憲法第22条2項によって保障されている。

 本来、居住・移転の自由は、身体の拘束を解く意義を有しており、自由権の基礎であり、憲法第13条の幸福追求権の一つとも解されている。

 今日は、「復帰」前の「無憲法」下の沖縄では、居住・移転の自由(本土への渡航の自由・海外渡航の自由)もなく、アメリカの「好ましからざる人物」は、パスポートの発給を拒否され、学問の自由、幸福追求権すらも奪われた、という歴史の真実から憲法を考えた。

 自民党「日本国憲法改正草案」のような改憲が実現すると、国民の基本的人権・自由権たる居住・移転の自由も〈公益及び公の秩序に反しない〉限りと制限されかねない。米軍にとっての〈好ましからざる人物〉は、日本政府にとって〈公益及び公の秩序に反する人物〉と同じように評価されるのだ。「復帰」前の悪夢の再来は拒否する。

(2013年6月17日 社民党国対委員長 照屋寛徳)


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