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憲法コラム

第175回(10月2日):照屋寛徳 議員

「憲法と結婚した」土井さんを悼む

【写真】何度も沖縄を訪れてくれた、土井さんとのスナップ写真

何度も沖縄を訪れてくれた、土井さんとのスナップ写真

 社民党名誉党首で女性初の衆議院議長を務めた土井たか子さんが去る9月20日、肺炎のため逝去された。

 私が「おたかさん」の愛称で親しまれた土井たか子さんの訃報に接したのは9月28日の午前10時30分頃であった。党本部の今井浩志常幹から携帯に電話があり、「間もなく全国ニュースになると思うが、9月20日に土井さんが逝去され、親族で密葬も済んでいる。いずれ社民党葬かしのぶ会をやる予定です」と告げられた。

 その日はうるま市議選の告示日で、今井常幹からの電話を受けたとき、私は党公認・推薦候補と革新系所属候補の出発式や陣中見舞いに駆け回っている最中だった。

 5〜6年前から土井さんが病気療養中であることは聞いていた。長年にわたり秘書を務めた五島昌子さんを通して「土井さんに会いたい。会わせてほしい」と何度も懇願したが、ついに会えずじまいになってしまった。

 それだけに、土井さんの訃報に驚き、強い衝撃を受けた。一瞬、チルダイ(放心状態)した。

 土井さんは、同志社大学大学院を修了後、同大学で憲法学の講師となり、1969年に当時の社会党から旧兵庫2区で衆議院議員に初当選した。いらい連続12回当選し、1993年8月には女性初の衆議院議長に就任している。その間、1986年には女性初の党首として第10代社会党委員長、1996年には党名変更した社民党党首を務めた。

 土井さんは「護憲のシンボル」でもあった。今でも、土井さんはよく「歩く憲法9条」「憲法と結婚した」などと呼ばれる。

 実は、土井さん自身がニューヨークのジャパンソサエティーで演説した折、「憲法に対する私の愛情は非常に深いものがあり、私は憲法と結婚し、これまで独身ですごしてきたわけです」と語った記録を読んだことがある。平和憲法と結婚し、憲法学者として、政治家として9条の精神を体現し、生涯独身を貫いた者は土井さん以外にはおるまい。

 土井たか子政論集『山の動く日』(すずさわ書店、1989年)は、社会党委員長就任いらいの衆議院における代表質問、海外での講演、各種集会での発言などがまとめられた一冊である。

 『山の動く日』の「はじめに」で、土井さんは次のように書き記している。

 「私は政治の世界にはいる前は大学で憲法を講義していた憲法研究者でした。

 私は日本国憲法を誇りに思い、日本社会党が憲法擁護の党であるからこそ、この党の一員となり国会議員となったのです」―と。

 この言葉に偽りはない。土井さんは愚直なまでに憲法と平和にこだわり、護憲政党たる社会党・社民党国会議員の枠にとどまらず、護憲派政治勢力のシンボル、トップランナーとして走り、闘い続けたのである。

 私は、1995年7月の参議院選挙(沖縄選挙区)に無所属・社会党推薦で立候補し、初当選した。

 選挙戦の最中の同年6月23日、「沖縄戦全戦没者追悼式」の式典に衆議院議長として来県中の土井さんは、那覇市における街頭演説会に飛び入り参加し、私の応援演説をしてくださった。庶民的で飾らない誠実なお人柄、力強く明快な"おたか節"の演説は、多くの県民に深い感動を与えたものだ。私も大きな勇気を得た。

 土井さんの応援のおかげもあって、無名で政治経験が乏しく、誰もが「当選不可能」と思っていた私が、自民党現職や共産党公認候補に打ち勝って当選したのである。

 土井さんは「ありったけの地獄を集めたような戦争」「20万余の尊い命を奪った沖縄戦」の悲劇、本土復帰前のアメリカ軍支配の中での「無憲法」下の沖縄、そして復帰後も「反憲法」下に置かれ続ける沖縄の現実とまっすぐに向き合っていた。政治家として、県民に寄り添い、「沖縄問題」解決のために沖縄と真の連帯を結んでいた。

 土井さんは本土復帰前も復帰後も、沖縄の各種選挙に応援に来られ、大田昌秀氏(元知事、元参議員議員)、東門美津子氏(元副知事、元衆議院議員、前沖縄市長)、山内徳信氏(元読谷村長、前参議院議員)らを国政へと導き、育ててくれたのである。

 沖縄に因んで土井さんが好み、色紙にしたためた言葉に「不戦の誓い 命(ぬち)どぅ宝」「辺野古の美ら海(ちゅらうみ)に ヘリ基地はいらない」などがある。

 2期目を目指した2001年の参議院選挙で落選した私は、2003年11月の衆議院選挙で社民党公認として初当選し、国政に復帰した。当選お礼に土井さんを訪ねると、「『捕虜が生んだ捕虜』の寛徳さんと、護憲と平和の課題を一緒にやれるのは嬉しい」と励ましていただいた。

 2004年6月、自民党の憲法改正プロジェクトチーム(PT)が「論点整理案」を発表した。自民党は当時、結党50周年の2005年11月までに独自の改憲案を取りまとめると表明していた。同じ頃、民主党「憲法提言中間報告」、公明党「党憲法調査会による論点整理」も相次いで発表された。

 そこで、土井さんと私は社民党の見解をまとめるべく、2004年の秋頃から党政策審議会の憲法担当者を交え、長時間にわたる侃々諤々の議論を幾度となく重ねた。その途中の2005年1月に私は脳梗塞を発症し、入院するのだが・・・。(手元には入院先の病院で添削した文章(文案)が残っている)

 結局、同年3月10日に土井さんと私は成案をまとめ上げ、「社民党―憲法をめぐる議論についての論点整理―」として発表した。

 憲法学者の土井さんとの議論は、私にとって大変勉強になった。土井さんと一緒にまとめ上げた「憲法をめぐる議論についての論点整理」は、2005年11月発表の自民党「新憲法草案」、2012年4月発表の自民党「日本国憲法改正草案」などを批判する社民党の論理的支柱となっている。

 土井さんは1986年、社会党委員長に就任する際の「やるっきゃない」、1989年消費税導入に反対した議論の中での「ダメなものはダメ」など数々の名言を残している。同年の参議院選挙で「土井ブーム」「マドンナ旋風」を起こして大勝利した時に語った「山が動いた」との言葉は余りにも有名だ。

 土井さんの演説は、聴く者の心を鷲づかみにした。いつ聞いても感動した。土井さんは、言葉の力でわかり易く思想と政治、時事問題を語る人であった。ある識者は、土井さんの演説には「論理の堅固さや力強さがあり、表現の具体性と明快さ」があった、と評する。きっと、土井さんは「言葉は思想である」との哲学を実践し、「普通のことばで考え、普通のことばで話す」ことを心掛けていたのだと思う。

 土井さんは「信じたこの道を私は行くだけ すべては心のきめたままに」と「マイウェイ」を迫力のある声で朗々と歌った。長いお付き合いの中で、シャンソンの名曲「サン・トワ・マミー」の熱唱を一度だけ聞いたことがある。

 土井さんは、沖縄に選挙応援に来られると、ウチナー民謡酒場にも姿を見せ、「おたかさん」ファンのオジィ・オバァたちと泡盛をチビリチビリとやり、時には一緒にカチャーシーを踊っていた。

 安倍政権が憲法解釈の変更による集団的自衛権行使容認へと暴走し、辺野古への新基地建設強行と沖縄への「構造的差別」強要に躍起になっているこの時を、土井さんは憲法と平和の危機として受け止め、心痛していたに違いない。

 今はもう土井さんと「幽明境を異にする」。だが、草葉の陰から「寛徳さん、くじけたらダメよ」と励まして下さっている気がしてならない。あの生前の満面の笑みを浮かべて―。

 土井さん、さようなら。どうぞ安らかにお眠りください。合掌。

 

(2014年10月2日 社民党衆議院議員 照屋寛徳)

 

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