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憲法コラム

第118回(10月9日):照屋寛徳 議員

「奴隷の幸せ」と「軍隊・階級」を拒否した軍警備員

(出典)全軍労・全駐労沖縄運動史(写真左)「写真集」 (写真右)「資料編」

全軍労・全駐労沖縄運動史

 沖縄の日本「復帰」が実現したのは、1972年5月15日である。昨年は、「復帰」から40年の節目にあたり、「反復帰論」「琉球独立論」などの総括を含め、様々に「復帰」の内実が論じられ、沖縄の自立や自己決定権確立の将来展望が語られた。

 悲惨な沖縄戦の終結と米軍占領支配直後から1950年代後半までの「復帰」運動は、極めて民族主義的で情緒的色彩の強いものであった。1960年4月28日、「沖縄県祖国復帰協議会」が結成されて以来の「復帰」運動の目標は、大衆運動の高揚とともに「日本国憲法の下への復帰」へと質的転換を遂げた。もちろん、当初から「復帰」運動への思想的・運動論的批判もあった。だが、「復帰」が実現し、今日までの経過の中で、多くの県民は「日本国憲法の下への復帰」が「日米安保体制の下への復帰」に変質している事に気づいたのである。

 今では、法治(法恥)主義の美名の下に、沖縄をアメリカの軍事植民地状況下に放置し続ける日本政府の「構造的沖縄差別」に強く異議を申し立て、沖縄の自立と自己決定権の確立を求める模索と実践が始まっている。

 「復帰」前から在沖米軍で働く警備員の皆さんも、「復帰」が実現し、自分達の雇用関係が日本国憲法の下で律される事を期待していた。復帰前、在沖米軍で働く警備員らは、米国陸軍大佐である憲兵指令官を長とする米国陸軍保安課の指揮監督下にあり、武装して米軍基地の警備や交通整理等の職務に従事していた。従って、「無憲法」下の沖縄、しかも、武装して米軍基地を警備するのが主たる職務の彼らには、労働三権の保障はなかった。

 1972年4月5日、軍警備員労働組合(軍警労)が結成された。復帰前の基地労働者は、アメリカ政府の「直接雇用」であった。復帰後は、日本政府が雇用主で使用人はアメリカ政府という「間接雇用」へ移行した。

 組合結成直後の軍警労がまっ先に取り組んだのが、階級章・肩章撤廃闘争である。実は、復帰前の軍警備員らは、米軍と全く同じ階級制度の労務監理がなされ、「二等兵から大佐」までの階級制度の下、制服に階級章・肩章の着用が義務づけられ、職場でも階級による命令・服従関係が徹底していた。

 それが故に、(1)勤務中に上官(同じ日本人)の靴を磨かされたり、乗用車を洗わされたり、反抗すると昇給が停止され、差別的な勤務配置を命ぜられた。(2)米軍や職場の上司(上官)には、常に敬礼を強要された。(3)米軍同様の哨舎・立哨・動哨勤務要領や歩哨一般命令の適用を受けたのであった。それ以外にも「奴隷労働」の実例を数多く聞かされた。

 軍警備員は、「復帰」によって日本政府が法的雇用主となり、米軍同様の階級制度による労務監理は廃止され、着用する制服から階級章・肩章が消えるものと期待した。ところが、そうはならなかった。やむなく、1972年6月16日から24日まで、制服から階級章・肩章を剥ぎ取って就労した。軍警備員らは、「武器対等の原則」による近代労働法の保障を求め機敏に決起したのである。

 軍警労の突然の決起に、米軍は、武装米兵を出動させ、実力で就労を拒否した。私は軍警労から依頼され、組合員の運転する乗用車の後部トランクに押し込まれ、基地内の闘争現場で就労要求闘争を指導した。見つかれば逮捕され、復帰後の刑事特別法違反第1号になるところであった。ところが、基地のゲートで立哨している者も組合員であり、難なく米軍基地に入る事が出来たのである。

 「階級章撤廃闘争」に決起した軍警労の組合員に法的雇用主たる日本政府は、賃金カットをした。「ノーワーク・ノーペイ」の原則を適用するとの言い分だ。

 1972年8月5日、軍警労の組合員507名が国を相手にカット賃金の支払いを求める断行の仮処分を申請した。開業間もない私が代理人を依頼された。一人で国を相手にするのは心細いので、弁護士を増やすようにお願いすると、「弁護士費用がないので、一人でやってくれ」との返事。

 1972年11月28日、断行の仮処分で全面勝訴の決定が出た。直後に、米軍は軍警備員らの制服から階級章・肩章を撤廃した。

 カット賃金支払いの断行の仮処分全面勝訴と階級章・肩章撤廃により、この問題は一件落着したものと思っていた。

 ところが、国は1982年12月16日、仮処分決定に対する起訴命令を申立てた。やむなく、賃金請求の本裁判を起こした。その時点で亡くなった組合員や居所不明者も多数おり、本訴提起に苦労した。だが、絶対に敗けるわけにはいかなかった。

 私は、軍警労の階級章撤廃闘争とそれに関連する裁判闘争は、「奴隷の幸せ」(主の米軍に従順で命令をきいてさえいれば、賃金と職場が保障される)を拒否し、日本国憲法第13条、第14条、第19条、第28条違反と労働基準法第3条、第5条違反を理由とする日本政府と軍警労の組合員(原告)らとの、人間性回復を求める攻防戦だ、と確信した。

 1988年12月15日、賃金請求事件の本裁判で全面勝訴した。実に、16年余の長い、長い闘いの結末であった。私は、弁護士開業直後に軍警労階級章撤廃闘争とその裁判闘争に出会い、弁護士としても、一人の人間としても、実に多くの事を軍警労の皆さんから学ばせてもらった。そのことが、今日の弁護士・国会議員としての私の原点になっている。

 軍警労は、その後全駐労沖縄地区本部に組織統合し、今はない。私は、後に出版された「階級章撤廃の記録」に一文を寄せ、次のように書き記した。

 「階級章撤廃闘争は、いかなる者も労働基本権を奪うことは許されないこと、労働者は一人一人は弱い存在だが、団結して闘えば大きな存在になり得ることを実証した。

 この裁判闘争の記録は、軍雇用員の存在証明を賭けた裁判の記録として、みんなの共有財産になると信じている。目に見えない権威や権力に「敬礼」の強要が始まりつつある時世だからこそ、自らの尊厳をもって「敬礼」を拒否し、「階級章」を剥ぎ取り、軍隊と階級を否定した人達がいたことを誇りに思う。」と。

(2013年10月9日 社民党衆議院議員 照屋寛徳)


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