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憲法コラム

第110回(9月13日):照屋寛徳 議員

米軍政下で勝ち取った言論の自由と憲法21条

【写真】2012年9月9日の「オスプレイ配備反対県民大会」から1年を迎え、沖縄地元紙は特集を組んだ。

米軍政下で勝ち取った言論の自由と憲法21条

 米軍政下の沖縄で、言論・出版に対する弾圧の象徴的事件が、沖縄教職員会発行の『愛唱歌集』回収命令であり、沖縄人民党機関誌『人民文化』の発刊禁止であった。

 沖縄人民党は、1947年7月に故瀬長亀次郎氏(後に、立法院議員、那覇市長、共産党衆議院議員を歴任)らが中心になって組織された政党である。同党は、1973年10月、日本共産党と合流し、現在は日本共産党沖縄県委員会となった。

 故瀬長亀次郎氏は、「亀さん」「カメジロー」などと呼ばれ、多くのウチナーンチュから慕われ、愛された、米軍の圧政と弾圧に抗し、不屈に闘った偉大な沖縄の戦後政治家である。

 沖縄人民党の事実上の機関誌であった『人民文化』が、戦後初の群島政府知事選挙目前の1950年9月12日、米軍政府によって発刊禁止処分になった。発刊禁止の理由は、群島知事選挙の候補者であった故瀬長亀次郎氏が沖縄民政府の復興費の使途を追及した同誌への寄稿論文「復興費の行方」であったようだ(沖縄タイムス刊『沖縄大百科辞典』)。

 沖縄人民党は、機関誌『人民文化』の発刊禁止以来、機関紙の発行許可を7回申請し、全て拒否された。当時は、琉球政府が米軍の布令に基づいて出版物の許可権を持っていたが、米軍の指示、勧告、命令には従わざるを得なかった。

 沖縄人民党は、多くの県民の支援を得て、言論・出版の自由を勝ち取るべく闘った。その結果、1961年12月、8回目の機関紙発行不許可処分の取り消しを求める裁判で勝訴し、1962年1月23日、機関紙『人民』を創刊発行した。『人民』の発刊後も、米軍は印刷会社に圧力をかけ、執拗に妨害した。やむなく、沖縄人民党は党員、支持者の協力で、自前の印刷所(たしか、私の記憶で「あけぼの印刷」)を建設したのである。

 実は、私の亡父が沖縄人民党立法院議員で具志川市区(当時)選出の故久高将憲の熱烈な支持者であった関係で、高校生時代に小さな農村集落で、『人民』を20部位配布し、集金もしていた。前原高校生徒会長の時には、生徒会新聞を「あけぼの印刷」に頼んだ事もある。亡父は、人民党員ではないが、米軍支配を嫌い、農民運動に深い理解を示す、泡盛好きで寡黙な反骨の人だった。

 今年になって機関紙『人民』の裁判記録一式が元人民党幹部で原告の真栄田義晃氏宅で発見され、2013年6月2日、沖縄タイムスが大々的に報道した。

 機関紙『人民』の裁判記録発見に際し、門奈直樹立教大名誉教授(ジャーナリズム論)は、次のようなコメントを沖縄タイムスに寄せている。

 「『人民』事件裁判の結果、出版許可制は有名無実化し、その後廃止された。沖縄が言論の自由を勝ち取る過程で、最大の闘いだった。
 琉球政府の裁判官は占領下の当時、米軍という全能の支配者に毅然と立ち向かった。逆に今、独立国である日本の裁判官の方が米軍に遠慮して、爆音差し止め訴訟でも責任を追及しない。人権の普遍的価値に依拠せず、日米安保体制のあしき現状肯定に流れている。」――と。

 さて、日本国憲法第21条1項は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と定めている。

 一方、自民党「日本国憲法改正草案」第21条1項は、現行憲法と変わらないが、同条2項を新設し、「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」と挿入規定する。

 言うまでもなく、集会や結社、言論や出版・表現の自由は、民主主義にとって必要不可欠な要素であり、基本的人権の中でも優先的地位を占める大切なものである。自民党が狙う改憲を許すと、米軍政下の沖縄のように、政府方針と違う表現活動は禁止されるであろう。米軍基地に反対する沖縄の集会やデモ、反原発、反TPPのデモも許されなくなるであろう。何よりも、政府や権力者を批判する言論、出版、表現行為としての文化・芸術活動までもが著しい制限を受けるであろうことは間違いない。自民党「日本国憲法改正草案」に基づく、憲法改悪を許してはならない。

(2013年9月13日 社民党衆議院議員 照屋寛徳)


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