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憲法コラム

第101回(8月22日):照屋寛徳 議員

沖縄県憲法普及協議会と憲法手帳

【写真】『憲法手帳』初版第一刷(1972年5月15日発行)

『憲法手帳』初版第一刷(1972年5月15日発行)

 沖縄県憲法普及協議会(以下、憲法普及協という)が結成されたのは、沖縄の本土「復帰」直前の1972年4月24日である。

 憲法普及協の初代会長は、故安里源秀氏(元琉大学長)であり、何代目かは知らないが、現会長は高良鉄美氏(現琉大法科大学院教授・憲法学)である。高良教授は、「憲法行脚の会」設立呼びかけ人のお一人でもある。

 憲法普及協は、念願の本土「復帰」の実現が現実化する状況下で、復帰運動を中心となって担ってきた沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)に参加していた団体が協議して結成された組織である。

 憲法普及協の初代事務局長であった金城睦氏(弁護士)は、憲法普及協結成の経緯について、次のように書き記(しる)している。

 「復帰を目前にして沖縄中が激動と混乱の渦のなかで、多くの人たちが明確な将来展望をもちえず混迷して、時の流れに身をまかす他ないような雰囲気にあったときに『復帰後の主要な課題は憲法運動だ。そのための大同団結した組織が必要だ』と先見の明のある提唱を真先にやったのも平良良松さんでした。その提言を受けて、当時復帰協に加盟していたほとんどすべての団体の代表が集まって準備にとりかかり、復帰直前の4月24日に結成されたのが沖縄県憲法普及協議会です。ですから平良良松さんは憲法普及協の生みの親であります」(『追悼・平良良松』、1990年発行)。

 金城睦氏が「憲法普及協の生みの親」だという故平良良松氏は、立法院議員4期、那覇市長4期をつとめた、激動の沖縄の戦後政治史と大衆運動に多大な功績と足跡を残した偉大な政治家である。

 私も1972年3月に弁護士登録をし、当時、金城睦弁護士の指導を得て、労働事件やコザ暴動事件等を共同担当していたこともあり、憲法普及協の理事をやっていた(今では、いつの間にか会費支払いだけの名目会員になってしまったが)。

 結成された憲法普及協は、復帰後の加盟団体の本土系列化の中で多難な船出となった。

 金城睦弁護士は、次のように述懐する。

 「復帰後の本土系列化の波が余りにも大きかったせいか、復帰協に代るべき大きな統一組織を予定していたはずなのに、現実に生まれた憲法普及協はとても小さな未熟児みたいなものでした。でも平良さんは、この未熟児をいとおしみ、少しでも大きく健全に育つように、市長の立場からできるさまざまな援助をしてくれました。生みの親でもあり育ての親でもあったのが平良さんであるわけです」(前掲書)。

 その、憲法普及協が発行したのが、憲法手帳である。私の手元にある初版第一刷の大型名刺サイズの憲法手帳の現物がある。発行年月日は1972年5月15日、発行所は株式会社三省堂、頒価120円である。

 憲法普及協の生みの親であり、二代目会長として育ての親の役割を発揮した故平良良松氏は、憲法手帳発行にあたり、「憲法手帳をかざして進もう」と題する巻頭言で次のように述べている。

 「(中略)戦争を否定し、国民に最低限度の文化的生活を保障しているはずの憲法が、すでに戦争をめざし、自然破壊と対外侵略を志向する支配思想に利用されようとしている。これが憲法の形がい化でなくて、なんであろう。

 ところで、憲法の形がい化の実態を、直接に見せつけられたのが、沖縄県民である。平和憲法体制への復帰を要求した私たちに、本土政府が復帰対策として、真先に提示したのが、反憲法体制の象徴ともいうべき、自衛隊配備であった。私たちは、これに対し、反戦平和、県民福祉、市民生活の細部と結びついた憲法精神を対置して、憲法の命をよみがえらせなければならない。つまり、憲法の初原の命を、本土へさしむけるのである。5月15日は、その第一歩をしるす日である。

 私は、那覇市民とともに、憲法を守り、憲法を実践するための、新たな『復帰運動』をこの憲法手帳をかざして開始する。」

 故平良良松氏は、当時、沖縄県市長会長、那覇市長として、この巻頭言を寄せている。

 故平良良松氏は、戦前、治安維持法で逮捕、投獄された経験の持ち主であったが、庶民的で反権力の不屈の精神を持つ政治家であった。その一方で、豪放磊落にして繊細、ユーモアを愛してやまない気さくな人だった。

 故平良良松氏が憲法手帳に寄せた巻頭言は、憲法の立憲主義に照らし、若干の問題点はあるが、指摘している憲法の形骸化は一層進行し、今や「壊憲」の動きすらある現状に、天国の平良良松氏も嘆いているに違いない。

 

(2013年8月22日 社民党衆議院議員 照屋寛徳)


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